どういう周期表に則っているのかわからないけど、何故か私の手元には禅の教えに繋がる本が思い出したようにやってくる。
優しい言葉で書かれたそれらは、けっして開運法や因果の恐ろしさを説くわけではなく、日々暮らすことの無常とそこに在る仏性、それらを通してただただ「ありのまま」を見つめることの贅沢さについて諭してくれる。
本書は禅の暮らしで基本となる『掃除』に特化した、やさしい禅の解釈が詰まってるらしい。目次だけを読むと一見、よくあるお掃除上手になりたい人向けの本みたいだけど……。
【読み始め】2023年6月5日
【読み終わり】2023年6月8日
2023年6月5日
私と禅の教えの関係は、近いようで遠く、意外と根深い。
御先祖のルーツが永平寺の近所だという話は盆暮れに田舎の家の仏壇の前で散々聞かされたけれど、親戚の中に仏門に帰依したという人は一人もいなかった。なのに大人の殆んどが一休さんの頓智なぞなぞ的なもの(後にそれが『禅問答』を彼らなりにアレンジしたものだと知る)を交えて、動植物を慈しむことや経済と犯罪の切っても切れない関係について等々を教えてくれた。
そこに、片付けと掃除についての心得も、多少なりは含まれていたようだ。
恐らく、門前の小僧習わぬ経を読む、を地で行く御先祖の誰かが始めた説法の真似事を、静かに生活の知恵として練り込み受け継いでいたんだと思う。
食器の油汚れは苦手だけれど、塵を払いふきんで拭き清めるのは好きな方だ。生来の面倒くさがりが勝って、片付けはなかなか上手にならないけども、物持ちは良くひとつのものを何年も長く使い続けるのが常になっている。
そういう私を形作ってくれたのは、なるほど、この知恵の経脈によるものか……と、第一章を読み終えたところで改めて納得している。
2023年6月8日【読了】
定期にせよ、不定期にせよ、基本に立ち返る機会が得られるのはありがたい。
人間の脳は自覚している以上に賢くできているので、常に学習し「慣れ」てしまう。
良いモノも悪いモノもいつの間にか自分流にアレンジして「自己満足な最適解」を拵えてしまう。
私はお寺さんに修行に出る根性も覚悟も備わってないので、エッセンスだけ頂戴するというズボラを許してくださいと心の中で手を合わせつつ、現代のお坊さんが書かれた本を読む。
特に禅の教えは一番肌にピタッとくる。
本書を読んでいてもその実感はあった。
そして、温故知新というよりも懐かしい風景を辿る旅にも似た清々しさがあった。
法要のたびに聴くお説教というよりも、夏や冬の長い休みで訪れる祖父母や親戚の家で交わされる会話や、その短い日々の暮らしの中に根付いた約束事といった、少々退色した景色が呼び起こされる。
今を生きていると、こんなことはすっかり忘れていた!と思うのだけど。
よくよく手元を見てみれば、あの頃に教わったことは骨身の何処かに沁みついていて。
塵をとり、拭きあげて輝かせ、あるべきところに収めて、足りていることに感謝をする。その一連を一日ずつ刻むように。私はそのように掃除ができているだろうか?
本書の言葉と我が身を照らし合わせつつ、和やかに読み終えたので、懸案だった掃除道具の整理と処分をすることにした。