あらたま@メモ魔通信

くらしの一コマ、ねこ、きもの、ラーメン、読んだ本、などな日々の活動メモ。書いて、読んで、猫と暮らす。丁寧ではないし、断捨離もしてないし、OLもしてません。

【読書記録】舟を編む

 

 

 最初は深夜アニメだった気がする。どうしようもなく真夜中向けの、静かで、固くも柔らかくもなく、時折チクチクする痛みが心地よい作品だった。

 その次に映画を鑑賞して、脇腹がこそばゆくなるような気恥ずかしさと奇妙な憧れを抱いた。

 大切に、大切に味わっていきたい――そういう作品の、原作小説をとうとう読むことにした。

 

【読み始め】2024年1月17日
【読み終わり】2024年1月31日

 

 

 

2024年1月17日

 一行読むごとに、嗚呼あのシーンだ。と記憶が鮮明に蘇る。

 それも深夜アニメの構図と色彩で。

 つまり、このお話が如何にアニメ向け構図で切り取られた物語であるかという証左を、冒頭数十ページで得たってことなんだろう。

 アニメ独特の構図を人間の俳優でもって、人間がカメラを構えて撮るというのは、物理的に難しく、昨今のCG技術やデジタルによる画像加工・処理技術の向上によってようやく可能になる撮影も少なくないと、どっかのドキュメンタリーで聞いたような記憶があるのだけど、このお話もその例にもれないのだろうなとふと思った。

 古い書店の一室で、静かに厳しく、まじめに言葉と向き合う人々の物語のどこに最新技術が入る余地があるのか?と素人の私なんかは首をかしげるばかりなのだけど、静かな物語だからこそ、人の瞳の輝きやページをめくる音、鉛筆が紙面を噛む音、鉛筆の芯の色等々、ちょっとしたところに魂を宿らせるには必要なのかもしれんじゃないか。

 それこそ、神は細部に宿る、というやつ。

 

2024年1月31日【読了】

 一冊の辞書には多くの人の手が掛かっている。

 本書の主人公と、彼を取り巻く辞書愛溢れる人たちだけではない。彼らに声を掛けられて、アルバイトしに来た学生もそうだし、陰ながら支える家族や別部署で働く人たちの尽力もあってこそ、なのである。

 

 その昔、嘘かホントか知らないが、国語の先生の代打で教壇に立った校長先生が「頭が良くなりたけりゃ、辞書のページをこう、破ってね。一枚ずつ食べなさい、なんて言ったもんです。司法試験に一発合格した先輩がほんとにムシャムシャ食べてるのを見てね、嗚呼こりゃあ真似できないなあと思いましたけどね……」なんて、授業そっちのけでお話していたけど、本書のような『辞書をつくること』についての話を、物語・ドキュメンタリーの別なくちょいと小耳に挟んでいたらページを破ってムシャムシャなんて果たしてできただろうか?

 

 テレビアニメ→映画→本書、と同じ作品をそれぞれ味わってみて、それぞれの良さを堪能した後だからいえるけれど、松田龍平さんの主人公は素晴らしかったなあと思う。

www.shochiku.co.jp

 ただ真面目なだけでなく、素朴でどこか抜けている、なんともいえぬ愛らしさがあった。この人に一冊の辞書を任せて大丈夫なんだろうか?と最初はハラハラするけれど、その朴訥さがやがて辞書そのものの信頼度そのものになっていくというか……映画を見終えて、新しく辞書を買いに行ったことを思い出す(たしか広辞苑だったか?)

 本書を読み終えた今、その時の気持ちを新たにして、卓上サイズの紙版の国語辞典を買おうかどうか迷っているところ。