あらたま@メモ魔通信

くらしの一コマ、ねこ、きもの、ラーメン、読んだ本、などな日々の活動メモ。書いて、読んで、猫と暮らす。丁寧ではないし、断捨離もしてないし、OLもしてません。

【読書記録】あしながおじさん

文学フリマ東京でお迎えしました



 文学フリマ東京でお迎えした作品。

 文学フリマで翻訳本を買い求めるのは、本書が初めて!

 高校生以来の『あしながおじさん』体験が意欲溢れる訳でどんな印象になるかな。

 ※書影は私が独自に撮影したものです。作者様や発売元様よりご要請ありましたら、画像の削除又は差し替えることがあります。

 

【読み始め】2024年1月25日
【読み終わり】2024年2月11日

 

 

 
2024年2月11日【読了】

 翻訳というのはとても奥の深い作業で、作品と訳者の相性もさることながら、訳者自身の言葉選びのセンスや語彙力が、物語全体のカラーを大きく左右する――と聞き及んでいる。

 書物に限らず、インタビューなどの同時通訳、映画の字幕、などもその例に漏れない。

 私が昔々に読んだ『あしながおじさん』は、そのまま国語の教科書に載せても遜色ないほどに、恐ろしくお行儀のいい日本語でもって訳されていた。とても賢く、美しいジュディが、あの最後の手紙を書くにあたり「ありゃま、恋は盲目?それともお金持ち効果?」と子供心に少々意地悪な視線でもって読んでしまったものだった。

 

 そんな私の体験を見透かされていたわけでもあるまいに……本書のジュディは、ただひたすらにキュートで、読んでいてハラハラドキドキ!

 孤児院で健康に賢く育ったという経歴を持つ女の子には、他に、赤毛のアン・シャーリーがいるけれど、ジュディも彼女に負けず劣らず元気いっぱい、というイメージがしっくりくるなあと改めて思った。

 小さい子の面倒をよく見て、いつか院長先生から自由を勝ち取る!と息巻くジュディ。

 その夢が冒頭、思いもよらず叶って、熱烈なお手紙を書いてしまうジュディ。

 ルームメイトと意見を交換したり、夜っぴて読書に夢中になるジュディ。

 決してスマートではないけれども、頭の回転の速さと愛情深さと疑うことを知らない真っ直ぐな心のジュディ像が、本書では十分すぎるほど伝わってきて、あしながおじさんを読んで声を上げて笑うなんていう大変にハッピーな体験を得ることができた!

 

 私が読んだ昔の版は、さすがにどれだか判らなくなってしまったけれど、今現在の少年少女たちに推奨される『あしながおじさん』の訳ってどんなのだろう?と、俄かに確かめてみたくなった。

 続けて別訳版を入手して読んでみる!

 

追記

 大昔に学校の図書館で読んだあしながおじさんが、どこの版元から出ていたものだったか?翻訳者の方の御名前も定かではなかったので、古典や名作系児童文学において個人的に信頼度の高いところから出ている一冊を選んで読んでみた。

 新訳だそうですよ!なんてラッキーな巡り会わせ(*´ω`*)

 ざっと読み通した印象では、柿田川さんのジュディが『世界名作劇場山田栄子が演じたアン・シャーリー』に近いのに対し、新潮文庫新訳版のジュディはもう少し大人びているというか、孤児院での教えがもうちょっとだけ骨身に染みているというか『スパイファミリーのヨル・フォージャーが張り切ってドジっ子モード全開になってるとき』を素の性格にしているような雰囲気があった。

 

 原書は同じものに当たりつつ、訳者が違うだけで、作品全体の雰囲気や登場人物の印象がここまで違うか⁉と改めて驚くとともに、翻訳という作業に邁進されているエキスパートの方々の御苦労に思いを馳せると、つくづく異文化・異言語の橋渡しって奥深く繊細な仕事だし、それだけにこの仕事が好きだ!となったら一生分の情熱を注がずに居れないのだなあと思う。

 歴史は、教科書の記述とデータだけでは推し量れない。

 その時代を生きた人の息遣いは、その時代を生きた人が残した日記や物語などの文書、絵画などの芸術、建築物などの造形物の中に静かに在り続ける……と、私は思ってる。

 新訳『あしながおじさん』にも時代背景云々とイマドキらしい注釈がつけられているけれど、現代人の感覚に合わないからといって度の過ぎた内容の書き換えがされることなく、こうして届けていただけたことに深謝するとともに、公正な目と価値観を持った人々によって『人類の文化的遺産』として読み継がれていくことを祈りたい。

 

【読書記録】舟を編む

 

 

 最初は深夜アニメだった気がする。どうしようもなく真夜中向けの、静かで、固くも柔らかくもなく、時折チクチクする痛みが心地よい作品だった。

 その次に映画を鑑賞して、脇腹がこそばゆくなるような気恥ずかしさと奇妙な憧れを抱いた。

 大切に、大切に味わっていきたい――そういう作品の、原作小説をとうとう読むことにした。

 

【読み始め】2024年1月17日
【読み終わり】2024年1月31日

 

 

 

2024年1月17日

 一行読むごとに、嗚呼あのシーンだ。と記憶が鮮明に蘇る。

 それも深夜アニメの構図と色彩で。

 つまり、このお話が如何にアニメ向け構図で切り取られた物語であるかという証左を、冒頭数十ページで得たってことなんだろう。

 アニメ独特の構図を人間の俳優でもって、人間がカメラを構えて撮るというのは、物理的に難しく、昨今のCG技術やデジタルによる画像加工・処理技術の向上によってようやく可能になる撮影も少なくないと、どっかのドキュメンタリーで聞いたような記憶があるのだけど、このお話もその例にもれないのだろうなとふと思った。

 古い書店の一室で、静かに厳しく、まじめに言葉と向き合う人々の物語のどこに最新技術が入る余地があるのか?と素人の私なんかは首をかしげるばかりなのだけど、静かな物語だからこそ、人の瞳の輝きやページをめくる音、鉛筆が紙面を噛む音、鉛筆の芯の色等々、ちょっとしたところに魂を宿らせるには必要なのかもしれんじゃないか。

 それこそ、神は細部に宿る、というやつ。

 

2024年1月31日【読了】

 一冊の辞書には多くの人の手が掛かっている。

 本書の主人公と、彼を取り巻く辞書愛溢れる人たちだけではない。彼らに声を掛けられて、アルバイトしに来た学生もそうだし、陰ながら支える家族や別部署で働く人たちの尽力もあってこそ、なのである。

 

 その昔、嘘かホントか知らないが、国語の先生の代打で教壇に立った校長先生が「頭が良くなりたけりゃ、辞書のページをこう、破ってね。一枚ずつ食べなさい、なんて言ったもんです。司法試験に一発合格した先輩がほんとにムシャムシャ食べてるのを見てね、嗚呼こりゃあ真似できないなあと思いましたけどね……」なんて、授業そっちのけでお話していたけど、本書のような『辞書をつくること』についての話を、物語・ドキュメンタリーの別なくちょいと小耳に挟んでいたらページを破ってムシャムシャなんて果たしてできただろうか?

 

 テレビアニメ→映画→本書、と同じ作品をそれぞれ味わってみて、それぞれの良さを堪能した後だからいえるけれど、松田龍平さんの主人公は素晴らしかったなあと思う。

www.shochiku.co.jp

 ただ真面目なだけでなく、素朴でどこか抜けている、なんともいえぬ愛らしさがあった。この人に一冊の辞書を任せて大丈夫なんだろうか?と最初はハラハラするけれど、その朴訥さがやがて辞書そのものの信頼度そのものになっていくというか……映画を見終えて、新しく辞書を買いに行ったことを思い出す(たしか広辞苑だったか?)

 本書を読み終えた今、その時の気持ちを新たにして、卓上サイズの紙版の国語辞典を買おうかどうか迷っているところ。

 

 

【読書記録】注文の多い料理小説集

 

 『ゆしま一箱古本市』に出店した際、同じ並びで出店中のkafkaさんから購入した一冊。カバーデザインが御洒落で、ぱらりと捲った一本目のお話の書き出しも、これでもかってくらい御洒落。

 普段はこんな御洒落小説を敬遠しがちな私だが、テーマが『料理』となると話は別。生きとし生けるものが避けて通れない、本能そのものの「食」を前にして、ここに収められた小説たちはどんな人間の隠し事を暴くだろう?

 

【読み始め】2024年1月24日
【読み終わり】2024年1月30日

 

 

 

2024年1月30日【読了】

 東京カ〇ンダーみたいなウマい話かと思いきや……痛快に転がされた一作目から始まり、上質なミニシアター系映画を鑑賞するような爽やかさ・救われなさ・しぶとさ……を怒涛の如く味わって、最後になんとも甘いデザートのようなお話まで用意してもらって、いやはや贅沢なフルコースの一冊だった。

 

 一日一本読む予定でいた作品集だったけど、気付けば二本読んでしまう日もあったり、己が『食欲』ならぬ『読書欲』と闘うことの難しさを突き付けられた一冊ともいえる。

 

 個性の方向性が全く違う作家が同テーマで集うのは、飛ばし読み上等の雑誌と違って文庫本にまとめ上げるのはとても難しいことだと思う。こういう話を……と注文を受ける作家の側も趣向の凝らし方から始まり、全体のバランスなど考えなければならないことはたくさんあるんだろうなあ。

 あ!

 だから『注文の多い料理小説集』なんていう、一見してダジャレみたいなタイトルが付けられているのかも??