あらたま@メモ魔通信

くらしの一コマ、ねこ、きもの、ラーメン、読んだ本、などな日々の活動メモ。書いて、読んで、猫と暮らす。丁寧ではないし、断捨離もしてないし、OLもしてません。

怪談?ホラー?もう、なんでも好き

恐い話界隈からは、そうそう抜け出せない

 
 読むのも、聞くのも、観るのも、まだまだ好き。
 大好き過ぎて、一日一怖入れないと体調がおかしくなる。比喩でもなんでもなく、本当におかしくなる。
 
 下手の横好きというか、自分で怖い話を書いてみたりもしている。
 書いてる最中は「うっひょ、こええええ!」と脳内奇声が絶え間ないのだけど、書き終えて通しで読むとちょっとも怖くない。
 
 怖いを創るって、難しい
 
 
だから先人たちの築き上げた怖いは凄い
 一口に「怖い」といっても、
 
  • 果てしない闇を切り取ることに特化してる
  • 小さな『奇妙』を丁寧に積み上げる
  • 生理的嫌悪感を追求する
  • 変態垂れ流し
 
 等々、取り組む方向性は様々。
 共通項は、
  • 生と死
  • 正常と異常
  • ハレとケ
 とかとか……の境界線や狭間となるのだろうか?
 
 いずれにせよ、そんな抽象的かつ千差万別の概念に輪郭を与えようというのだから、自然と高水準の表現力が求められるのだなあ。
 
 薄っぺらでは当然怖くないし、前衛的またはピーキー過ぎても意図した怖さが伝わらない。
 
 だから、だ。
 文豪たちの遺した『怪談』は凄い。
「奇をてらってないですよ」と、さりげなさを装いつつ、滅茶苦茶計算してる。
 
古式ゆかしい怪談からモダンホラーまで色々楽しんだのだけど
 この夏、中でもびっくりしたのが
 小川未明……誰それ?と首をかしげる人も多いかもしれないけれど、絵本で『赤いろうそくと人魚』というのを小学校の図書室で見たこと無いだろうか。あの、作者。
 
 童話作家らしい、優しい語り口とシンプルなプロットながら、ターゲットはビシッと大人なので折り目正しくきちんと気持ち悪いし怖いし、読み終えるのが惜しくて困る。
 音読しても耳に心地よい言葉選びの妙、天才。
 
 もちろんお子さんも読んでみてほしい。お父さんお母さん、毛嫌いしないで買ってあげてみてもらえませんか?
 怖い話を一日一話読み聞かせなんてのも、夏休みらしくて楽しいと思うのですが、駄目ですか?
 
閑話休題
 絵画の世界だと、天才の作品を模写する事は練習として有効と聞いたことがある。
 それにならい、試しに一本真似して書いてみよう。と、思ったのは良いけれど、プロットの段階で降参した。
 
 無駄なものは一切なく、かといってギチギチに作り込まず絶妙な『隙』を残して、読み終えた後の静寂さえも舞台装置として組み込んでしまう計算高さ。
 もう、この作者自体が私にとっての『怖』だな。
 

猫と寝具

 
 ニトリの寝具は年々進化していて、その技術躍進にびっくりしない年は無いと確信している。
 
猫とヒトの一夏戦争
 うちのボクもニトリ寝具が好きで、ヒトを追い出しては寝心地にうっとりしている。猫用寝具は気に入ること皆無なのに、ヒト用ニトリ寝具はすぐに気に入る。
 ヒトに『あっちいけ』と蹴りをいれ、広々としたヒトの寝具で寝るとか、あーこれがジャイアニズム……
 
 今年はほんとに暑くて、スーパーNクールを導入した。
 ニトリ寝具大好きボクが気に入らないはずもなく、
 
「朝です、畳みますよ」
『なんでよ(ヒャクレツガン飛ばし)』
「えー……」
 
 
 応援の声が無くとも踏みとどまらねばならない
 今年の夏はほんとに暑い。
 残暑とか、暦の上では秋とか、そんなもの詭弁だ。
 夏はまだまだ本気だと思う。ボクと私の寝床陣取り戦もまだまだ続く。
 

同じ瞬間は二度と巡ってこない

 
 

二足歩行(私)も四つ足(にゃんこのボク)も、隔たりなく歳をとる。

 同じく、植物だって一分一秒先には、枝が変化して葉っぱが別のゆらぎの上に乗っている……ヒトの目にはその変化はなかなか観測しづらいけども。
 
 秋になって暖色系の葉っぱが落ち始めるころになってようやく気づいたとしても、今年の夏の木々の営みをもう一度愛でることは叶わない。
 
観測点をもっと大胆にずらすと。
 星の運航も、同じ配列は二度と巡ってこない……らしい。
 
 太陽と地球、地球と月。
そういうご近所同士のルーチンワーク的な関係さえ、物理法則によってちょっとずつずれたりリセットされたりしていて、簡単には「去年の今日もこんな月だったわね」なんてことは言えなくなるのだそうだ。
 
 さらにここへ水星や火星等々といった離れたところにいる親戚的な星を考えに入れると、似たり寄ったりな配列になるのは百年単位では効かないほど遠い未来の話になるそうで、まさに夜空の星ぼしは一期一会の円周運動を延々と続けているわけだ。
 
 考えただけで、あまりの尊さに頭が自然に下がる。
 
なんでこんなこと考えるのにハマってるのかというと
 こういう本を読んだから
占星学 新装版

占星学 新装版

 

  

 占星術というのは、多少強引にまとめると
 望遠鏡や分度器で観測した天体の動きを図式化して、統計学的見解を盛り込んだもの 
ということになるのかな?と。
 なんとなく風水術に近い感じがする。
 
とはいえ、両者はどうも方向性が違う。
 
 風水が『統計的にこの目的を達成したいならこのように行動しなさいね』と言うのに対し、占星の方は『統計的にこういう波がきてる読めるからこのように振る舞うといいかもよ?』とアドバイスしてくれる感じ。
 天気予報みたいだな、と思う。
 
秋分の日も冬至も、例年通りにやってくる
 けれども、今年の秋分の日は今年だけのものであり、冬にどんなきものに袖を通そうか迷っている今の私は来年の同じ日時に同じ悩みを抱えている保証は無いわけだ。
 
 天気予報みたいなら、当たっても外れてもさして悔しくはない。
 むしろ、外れたって大丈夫!と鷹揚に構えていられるように、二度と巡ってこない一瞬を生ききりたい。
 
 無駄遣いせず、堂々と。