恐い話界隈からは、そうそう抜け出せない
読むのも、聞くのも、観るのも、まだまだ好き。
大好き過ぎて、一日一怖入れないと体調がおかしくなる。比喩でもなんでもなく、本当におかしくなる。
下手の横好きというか、自分で怖い話を書いてみたりもしている。
書いてる最中は「うっひょ、こええええ!」と脳内奇声が絶え間ないのだけど、書き終えて通しで読むとちょっとも怖くない。
怖いを創るって、難しい
だから先人たちの築き上げた怖いは凄い
一口に「怖い」といっても、
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果てしない闇を切り取ることに特化してる
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小さな『奇妙』を丁寧に積み上げる
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生理的嫌悪感を追求する
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変態垂れ流し
等々、取り組む方向性は様々。
共通項は、
- 生と死
- 正常と異常
- ハレとケ
とかとか……の境界線や狭間となるのだろうか?
いずれにせよ、そんな抽象的かつ千差万別の概念に輪郭を与えようというのだから、自然と高水準の表現力が求められるのだなあ。
薄っぺらでは当然怖くないし、前衛的またはピーキー過ぎても意図した怖さが伝わらない。
だから、だ。
文豪たちの遺した『怪談』は凄い。
「奇をてらってないですよ」と、さりげなさを装いつつ、滅茶苦茶計算してる。
古式ゆかしい怪談からモダンホラーまで色々楽しんだのだけど
この夏、中でもびっくりしたのが
童話作家らしい、優しい語り口とシンプルなプロットながら、ターゲットはビシッと大人なので折り目正しくきちんと気持ち悪いし怖いし、読み終えるのが惜しくて困る。
音読しても耳に心地よい言葉選びの妙、天才。
もちろんお子さんも読んでみてほしい。お父さんお母さん、毛嫌いしないで買ってあげてみてもらえませんか?
怖い話を一日一話読み聞かせなんてのも、夏休みらしくて楽しいと思うのですが、駄目ですか?
閑話休題。
絵画の世界だと、天才の作品を模写する事は練習として有効と聞いたことがある。
それにならい、試しに一本真似して書いてみよう。と、思ったのは良いけれど、プロットの段階で降参した。
無駄なものは一切なく、かといってギチギチに作り込まず絶妙な『隙』を残して、読み終えた後の静寂さえも舞台装置として組み込んでしまう計算高さ。
もう、この作者自体が私にとっての『怖』だな。