一棚お借りしているシェア型書店『猫の本棚』さんにてお迎えしてきた作品。
作者の中川さんの棚に本書が並んだ旨をつヰったー(現:えっくす)で知り、こそこそとお店に伺って立ち読み、もくじを眺めて「こりゃ大変な一冊だ!」と即レジへ。
サブスク盛り上がる昨今でも、名作と呼ばれるアニメが全て鑑賞できるわけではないし、鑑賞できたとしてもその時代背景や他の作品との相互関係がわからないといまいちピンと来なかったりする。こういう本を読んでおくのとおかないのでは、文字通り『見る目』が変わっちゃうと思うのだ……。
【読み始め】2024年2月6日
【読み終わり】2024年9月21日
2024年4月28日
日本のアニメを語るにあたって、良くも悪くも手塚治虫という漫画家は避けて通れないのだ……とはなんとなく聞いていたけれど。アニメがアニメと呼ばれる以前からその影が爪痕が、薄っすらとではあるけれど残っているんだなあ。
そして、アニメとは直接関係無いように見えて、実はとても重要なのが「映画からテレビへ」と国民の嗜好の大柱が移ろうとする時期について。高級品だったテレビが一般家庭に普及し、娯楽の花形になっていく様は、当時の映画業界にとっては大変な衝撃と静かにして重たい恐怖だったのかもなあ……と。
とはいえ、そんなテレビの普及のおかげで、私はライディーンやコンバトラーVの雄姿を拝めるのだけど、それはもうちょっと先で語られるのかしら?とどきどきしながら読み進めることにする。
2024年8月7日
読み進めては少し戻って同じ節を二度、三度、読み返してみる。
こちらの御名前どこかで……と引っかかっては、ググって「あああああ、これらの作品のクレジットでお見かけしていたのか!」と漫然とテレビを見ていた子供時代に思いを馳せては戦慄する。
手塚治虫先生も実践したストーリーボードというものについて、絵コンテとの違いやプロットとの関係性などを調べ、練習テーマを設定して書いてみたりする。
そういうことをやっていたら、やれやれ、もう真夏いや酷暑に突入してしまった。
暦の上では立秋とか、口に出すのも馬鹿馬鹿しくなってくるくらい、1960年代のクリエイターの皆様の(特に手塚先生の先を見据える目の凄まじさの)熱量で頭の中も沸騰しっぱなしだ。
創りたいものを創る。その環境を継続させるための、資金と人手の循環する仕組み作り。私は文字で物語を作るから、当時のアニメーション制作の現場とは規模が全然違うけれど、それでも本書で掘り起こされる国内アニメの夜明けという貴重な時間の中には学ぶべきことが山ほど詰まっている。
2024年9月21日【読了】
文学フリマ札幌9に出店するため!と大変に大きな理由を見つけたので、北海道新幹線と在来特急を乗り継ぎ、およそ半日の列車の旅に出た私は、道中本書の残りを駅弁と共に楽しみ、だだっ広い牧草地帯の向こうに陽が沈まんとする瞬間に読み終えたのだった。
その景色と、手塚アニメの衰退が絶妙に重なる気がして、その後の日本のアニメの盛り上がりを知っていても、やっぱりセンチメンタルな気分になる(頭の中では中島みゆきが歌い出していた)。
アニメ業界の悪習を作ったのは手塚治虫だ全部手塚治虫が悪い、という論調を信じる人は本書を読めばいささか考えが変わるのではないだろうか?
それでもやっぱり大元は手塚だ!との認識に揺るぎは起きずとも、天才とはいえたった一人の産み出したアイデアがその後大勢を泥沼に沈めるだけの膂力があると決めつけるのは乱暴だなと思うのではないだろうか。
あのダイナマイトも――発明者は戦争の効率化のために作り出したのではないと言っていたのではなかったか?それを手にしたその他大勢が、素晴らしい道具を悪しきことに流用した後続の者たちは一ミリも罪に問われないというのだろうか?
畑は違えど、本書に登場する物語の作り方は、私も大いに活用している。本書を読むことでもう一度、そのメソッドの基本に立ち返り、練習問題よろしくお話を一本書いてみたりもした。
本書は歴史に興味がある人、何らかの創作に携わる人、資料本マニア、そういった人々にはもちろんのこと、日本の文化について一段掘り下げて学んでみたい人にも、その好奇心を充分に満足させてくれるものと思う。
モノ作りって大変だけど、ゼロから産み出す大変さはその斜め上を行く、想像なんて軽く飛び越えるよ……と、本書を読んで打ちのめされる人がひとりでも増えますように。