あらたま@メモ魔通信

くらしの一コマ、ねこ、きもの、ラーメン、読んだ本、などな日々の活動メモ。書いて、読んで、猫と暮らす。丁寧ではないし、断捨離もしてないし、OLもしてません。

【読書記録】でえれえ、やっちもねえ

 

 

 私が勝手に一方的に「書き物界の心の恩師」と仰ぐ岩井志麻子先生の新作。

 今作も御勉強させていただきます……という気持ちも勿論あるのだけれど、ただただ圧倒されたくて読むのです。


【読み始め】2021年8月15日
【読み終わり】2021年9月21日

 

 

 

2021年8月20日
 私という人格の中にはどこにもない、背景と感情と概念が渦巻いている。
 こういう怖さを書きたいと思うけれど、憧れはするけれど、果たして私に書くことが許されるんだろうか?
 
 同じ人生を歩む人がほぼ居ないのと同様に、同じ恐怖を描ける人もまたいない。
 私はどこまで「怖い」という概念を掘り下げられるんだろう?
 岩井先生の境地に近づこうとすること自体がちょっと怖いかも……と思えてくる。
 
 
2021年8月26日
 なんとも言えぬ、ぬめりを帯びた余韻。
 妖異と呼ぶには何かが足りず、かといって理路整然とした説明も受け付けない、これぞ「怖い話」と憧憬してやまない物語が淡々語られる。
 きれいな後日談なんてない。だからこそ、ありきたりな実話怪談よりも妙にリアルだ。
 
 
2021年9月3日
 文学を志し、信念を持って上京するも、隠しきれない昏い本心は隠すことができない。
 とかく、女性は感情で生き、男性は理屈で生きる。などと昔々から言われているくらいだ。女性が一つの『道』を究めることは、世の倣いや圧倒的多数が共有している倫理観の影響だけでなく、そうそう簡単な事ではないのだろう。
 
 今も、昔も。変わりなく。
 
 『カユ・アピアピ』の舞台となる時代と現代では女性を取り巻く環境はだいぶ変わった。優しくなったところもあるし、かえって厳しさが増したところも、それまで明るみに出てこなかった問題も……とはいえ、女性とりわけ何かを成し遂げたいと祈りにも似た希望を胸に秘める女性の有り様には、さほど変化はないのじゃなかろうか?
 
 
2021年9月21日【読了】
 ちびちびと読み進めた上に、まただらだらと前のページに戻っては、一言一句舐めるように読んでいた。
 だからと言って、話の全てを覚えようとしているのではない。
 むしろ覚えたくない。
 次に読む時には初読者のような顔をして、物語に埋没したいから。
 
 どちらかというと、岩井志麻子先生の描く世界は湿り気や温度、人物たちの汗のにおいや整髪料の質感など、不快感一歩手前のなんとも言えないゾワリとした雰囲気を味わうのが本筋であり、時たま夢か幻のように現れる怪しいものどもは小道具の一種なのではないかと思える。
 その雰囲気に耳まで浸かって、溺れる寸前のところで、自分の粗い息遣いに不安感を覚えながら読み進めるのが……得も言われぬ心地なのだ(ドMではない)。
 でもって、最後には必ずと言っていいほど、足元をぐるん!と掬われる。文字通り、奈落に落とされ、落とされた瞬間は何が起きたのかもわからず、ものの見事に叩きつけられて途方に暮れる。
 
 読者に容赦をしない妖異作家として、小野不由美先生がいる。
 小野先生の場合、読者と物語の登場人物、双方に対して容赦が無く、ある意味平等という名の慈悲でもって統治する神のように思えることもあって、不思議な安心感の中で読み進むことができる。
 だけど。
 岩井先生の場合、何かが違う。
 読者へは勿論容赦が無い。登場人物にも容赦が無い。
 報いは平等にやってくるし、狂おしいほどの愛憎の色は鮮やかで、身に覚えのあるエピソードの欠片でも見つけようものなら、その生々しさに吐き気がするほどだ。
 
 そんな肉感的・直感的に切り取られた情景を、岩井先生の筆致は冷たく鋭く描写する。
 その冷たさゆえに、より一層の突き放し感というか、半端な優しさは反って毒になるのだと諭される。
 最後に奈落が大口を開けて待っているのもむべなるかな。
 読者たる私の心に一かけら残っている「最後は多少ロマンチックに終わるのでは?」という甘っちょろい期待を打ち砕くのだ。それはもう、しっかりと。
 
 「大馬鹿者め、この世は甘美にして惨い地獄絵図。それ故に愛しいのだ」
 と、岩井先生がお叱りになられたのか?どうか。
 再読の際にはまた物語を通して怒られるんだろうなと思いつつ、それこそを楽しみに、真っ新な脳味噌でページをめくるのだろう(だから。ドMじゃないのだよ)。