あらたま@メモ魔通信

くらしの一コマ、ねこ、きもの、ラーメン、読んだ本、などな日々の活動メモ。書いて、読んで、猫と暮らす。丁寧ではないし、断捨離もしてないし、OLもしてません。

猫の本棚144番棚おしながき 『虎徹書林のくりすます2023』

 

2023年12月1日

 144番虎徹書林の棚は只今、年末年始だけの特別仕様です!

 

テーマは『動植物園』

 いつもは文学フリマ会場のミニチュア版ですが、クリスマス時期を中心とした年末年始は自宅の本棚から拙著・愛読書の区別無く、私が勝手に決めたテーマに沿ってディスプレイしています。

 

 テーマ=動植物園、としましたが――私が生き物ってことにしたい!と思ったナニモノかが登場する・モチーフになってる作品を選んでいます。
 つまり、ちょっとあやしい生き物も居りましてですね(=゚ω゚)ノ
 ※鬼とか猫又とか……みんな、みんな、生きているんだってことで!

 そして言わずもがな感いっぱいなんですが、ネコ科動物(?)率も高めです。猫の本棚さんの一画での企画ということもありますが、私がやっぱり猫に吸い寄せられてしまうんですね。そこは平にご容赦くださいませ。

  • 猫又方途(ねこまたほうと):拙著。猫又がテーマの短編集
  • 妖之鏡細工(あやしのかがみざいく):拙著。鏡のツクモガミっぽいおじさんが話を引っ張る短編集
  • の家:花房観音先生の本。美しく、怖い、連作短編集。
  • 聖者の落角:芦花公園先生の本。何やら天使っぽいものが……と思いきや!怖い!
  • と鋼の森:宮下奈都先生の本。ピアノの音は羊がいなければ静かに響かない
  • 怪々:お化け好き界のスター加門七海先生の本。育猫エッセイ(プチ怖)!
  • 52ヘルツのクジラたち:現代人が求める「共感」をクジラの歌に準えたみたいな心がヒリヒリするお話

 

 秋の新刊『泡沫百怪』も引き続き置いてあります。
 怖い話というのは夏の風物詩のイメージが強いですけども、春夏秋冬それぞれに必ず怪異は居りますから、年がら年中問わず楽しんでいただけたら怖い話好きとしては大変にうれしいです。
 寒さが募るこの時期に炬燵でぬくぬくしながら、今年の夏の名残の怖い話を楽しんでみるなんて……乙な読書体験だと思うんですがいかがでしょう?

 

 

 

 ※こちらは『猫の本棚』さんの一画をお借りして運営しています。

 ※完全キャッシュレス対応のお店です。現金でのお取引はできません。

 ※営業スケジュール・対応クレジットカード及び電子マネーをよーくご確認の上、ご来店くださいませ

『猫の本棚』- 本の街、神保町のシェア型書店

【読書記録】人生がうまくいく人の自己肯定感

 

 

 Kindle版にて。

 以前読んだ片付けの本がとても良かったので、

tama-memo.hatenadiary.jp

 そちらで言及されてた本書を読んでみた。


【読み始め】2024年2月6日
【読み終わり】2024年3月29日

 

 

 

2024年3月29日【読了】

 禅の修行をなさった精神科のお医者様らしく、優しい言葉で書かれたメンタルケアの本――だったのだけど、やっぱり禅の道に沿っての解説が多いので、私にはスルッと入ってくる箇所が多かった。

 

 わかりやすく説明するために、極端な「例」をあげてしまうのはこの系統の本にはよくあることだと思う。

 なので読み手のほうで「これはあくまでも一例、決して当てはまるからといって悲観すべきでないし、当てはまらないからといって軽く読み飛ばしていいというもんでもない」と軸をぶらさないように読まないと、きちんと読みこなせないだろうなあ。

 それどころか、ミスリードの深みにはまって、更なる悩みを抱えてしまいそう。

 

 私が本書を読んでいて思ったのは、己の自己肯定感って想定ほど低くないのかもしれないということ。

 そのかわりに低いのは、自己への慈しみや赦し、だ。

 総合すると『肉体的にも精神的にもどうしようもなく低レベルで、常に人並みになりたいと思いつつ行動しても失敗ばかりしてる、そんな自分を半分以上「もうそれでいいんじゃない」諦めてる人』ってとこだろうか。

 世間的には一見すると、自分を受け入れてて他人にも寛容そうに見えて、そこそこハッピーに生きてる人に思われてるかもしれない。が、現実の私は劣等感が8~9割、残りは諦めで出来ている。自己を否定してない(=肯定感はある)けど、常にガンバレ、マダマダ、ナンデデキナインダヴォケ、の三段活用で己を煽り散らかしている――らしいぞ?

 

 その昔、私に「おまえはもっと自分を大事にすることを学ぶべきだ」と言った人がいる。私はその人の前で、わけわかんないくらい泣いた。わけがわからないなりに、この人のためにも幸せにならねばならんと思った。

 一方で別の人に「あなたは誇り高く、己の才気に拠って立てる。だから僕は別の人と共に生きる」と言われた時は、絶望のあまり怒ることもできなかった。私の心の深い部分を理解し、私にも伝わるように示してくれる人だと思っていたけどそうではなかったみたい……あれは己の、人間観察の眼の未熟さへの絶望だった、と思っていた。

 この二つの大事件において共通していたのは、自分自身の軸を見失っていたこと。それからン十年と経っても見失いっぱなしで、近年ようやく、この手の本を読むようになって謎が解き明かされる手応えを掴みつつあったんだけど、本書のおかげで研究が更に大きく前進した気がする。

 自己肯定感は中の中だけど、頭の中で自分を罵倒することがやめられない――サァ、私という人をシンプルに言語化することができたぞ?次はどんな本を読もうか。その前に、本書で提案のあったワークをやってみようか……

 

 

【読書記録】怪異短歌集弐

文学フリマ京都でお迎えしました



 文学フリマ京都でお迎えした作品。

 小柳とかげさんの怪異短歌集、弐作目。和綴じの雰囲気も相まって、期待大。

 ※書影は私が独自に撮影したものです。作者様や発売元様よりご要請ありましたら、画像の削除又は差し替えることがあります。

 

【読み始め】2024年2月7日
【読み終わり】2024年2月7日

 

 

 
2024年2月7日【読了】

 一作目に続き、鮮やかな闇が広がる素敵な歌集だった。

 

 一首一首が既に怪異そのもの。街中に、学校に、手招きすることもあればただそこにじっとしているものを、いたずらに飾ることない言葉で表現……というよか「再現」している。そんな感じ。

 

 語りだったり、小説だったり、ルポだったり、ある一定以上の尺を求められる作品の場合、小柳さんが切り取る怪異は「何かが足らない」と脇に避けられてしまうことが多いのじゃなかろうか?

 短歌でなければ……短歌だから……その不気味さ、哀しさ、そこはかとないユーモアを存分に発揮できる怪異が、この世には少なからず存在するってことなのかもしれないなと、怪異を捉まえるにあたって失敗ばかりの私は本書のページを何度も行ったり来たりした。

 

 小柳さんの才を大変に羨ましく思う。

 私にはとても真似のできないシリーズ。

 そんな本書で「これはいったいどういうことなんだろう?」と想像が膨らみ過ぎてしまい、この一首が連作短編に転生するのでは⁉とあれこれ妄想したのがこちらの作品だった。

隣人は可愛い女の子 そのドアで入居者募集の紙が古びて

(怪異短歌集 弐 p.17) 

 小柳さん、この部屋にまつわる短編集、御執筆の予定はありませんでしょうか?
 o(^-^)o ワクワクッ

 

【読書記録】あしながおじさん

文学フリマ東京でお迎えしました



 文学フリマ東京でお迎えした作品。

 文学フリマで翻訳本を買い求めるのは、本書が初めて!

 高校生以来の『あしながおじさん』体験が意欲溢れる訳でどんな印象になるかな。

 ※書影は私が独自に撮影したものです。作者様や発売元様よりご要請ありましたら、画像の削除又は差し替えることがあります。

 

【読み始め】2024年1月25日
【読み終わり】2024年2月11日

 

 

 
2024年2月11日【読了】

 翻訳というのはとても奥の深い作業で、作品と訳者の相性もさることながら、訳者自身の言葉選びのセンスや語彙力が、物語全体のカラーを大きく左右する――と聞き及んでいる。

 書物に限らず、インタビューなどの同時通訳、映画の字幕、などもその例に漏れない。

 私が昔々に読んだ『あしながおじさん』は、そのまま国語の教科書に載せても遜色ないほどに、恐ろしくお行儀のいい日本語でもって訳されていた。とても賢く、美しいジュディが、あの最後の手紙を書くにあたり「ありゃま、恋は盲目?それともお金持ち効果?」と子供心に少々意地悪な視線でもって読んでしまったものだった。

 

 そんな私の体験を見透かされていたわけでもあるまいに……本書のジュディは、ただひたすらにキュートで、読んでいてハラハラドキドキ!

 孤児院で健康に賢く育ったという経歴を持つ女の子には、他に、赤毛のアン・シャーリーがいるけれど、ジュディも彼女に負けず劣らず元気いっぱい、というイメージがしっくりくるなあと改めて思った。

 小さい子の面倒をよく見て、いつか院長先生から自由を勝ち取る!と息巻くジュディ。

 その夢が冒頭、思いもよらず叶って、熱烈なお手紙を書いてしまうジュディ。

 ルームメイトと意見を交換したり、夜っぴて読書に夢中になるジュディ。

 決してスマートではないけれども、頭の回転の速さと愛情深さと疑うことを知らない真っ直ぐな心のジュディ像が、本書では十分すぎるほど伝わってきて、あしながおじさんを読んで声を上げて笑うなんていう大変にハッピーな体験を得ることができた!

 

 私が読んだ昔の版は、さすがにどれだか判らなくなってしまったけれど、今現在の少年少女たちに推奨される『あしながおじさん』の訳ってどんなのだろう?と、俄かに確かめてみたくなった。

 続けて別訳版を入手して読んでみる!

 

追記

 大昔に学校の図書館で読んだあしながおじさんが、どこの版元から出ていたものだったか?翻訳者の方の御名前も定かではなかったので、古典や名作系児童文学において個人的に信頼度の高いところから出ている一冊を選んで読んでみた。

 新訳だそうですよ!なんてラッキーな巡り会わせ(*´ω`*)

 ざっと読み通した印象では、柿田川さんのジュディが『世界名作劇場山田栄子が演じたアン・シャーリー』に近いのに対し、新潮文庫新訳版のジュディはもう少し大人びているというか、孤児院での教えがもうちょっとだけ骨身に染みているというか『スパイファミリーのヨル・フォージャーが張り切ってドジっ子モード全開になってるとき』を素の性格にしているような雰囲気があった。

 

 原書は同じものに当たりつつ、訳者が違うだけで、作品全体の雰囲気や登場人物の印象がここまで違うか⁉と改めて驚くとともに、翻訳という作業に邁進されているエキスパートの方々の御苦労に思いを馳せると、つくづく異文化・異言語の橋渡しって奥深く繊細な仕事だし、それだけにこの仕事が好きだ!となったら一生分の情熱を注がずに居れないのだなあと思う。

 歴史は、教科書の記述とデータだけでは推し量れない。

 その時代を生きた人の息遣いは、その時代を生きた人が残した日記や物語などの文書、絵画などの芸術、建築物などの造形物の中に静かに在り続ける……と、私は思ってる。

 新訳『あしながおじさん』にも時代背景云々とイマドキらしい注釈がつけられているけれど、現代人の感覚に合わないからといって度の過ぎた内容の書き換えがされることなく、こうして届けていただけたことに深謝するとともに、公正な目と価値観を持った人々によって『人類の文化的遺産』として読み継がれていくことを祈りたい。